皇族电竞竞猜_线上游戏官网~

图片

皇族电竞竞猜

お問合せ

交通アクセス

日本語English

卒業生インタビュー(5回目)-音楽学

大戸 薫さん
2002年 修士課程(音楽学)修了

「県芸で学んだ6年間で、音楽家また教育者として、バランスのとれたバックグラウンドを培えたと思います」

県芸のピアノコースを卒業後、大学院で音楽学を専攻した大戸薫(おおと?かおる)さん。大学院修了後は、フランスのモンペリエに留学して音楽学の研究を続け、現在では、フランスを拠点にピアニストとしても精力的に活動されています。演奏?研究を通じて、音楽に広くアプローチしてきた大戸さんのこれまでの歩みについて、詳しくお聞きしました。

musicology-interview-05-01大戸薫さん

????県芸のピアノコースに進学した理由を教えてください。

大戸「私は地元菊里高校の音楽科出身ですが、実はぎりぎりまで、いわゆる普通大学に行くか音楽の勉強を続けるか、進路選択には迷いました。最終的には音楽に対して"趣味"ではなく、きちんと勉強したいと思ったのが、芸大への進学を決めた理由かもしれません。県芸の受験は、当時の恩師に紹介していただいた先生方とのご縁をきっかけに決めました。」

????学部では、どのような学生生活を送りましたか。

大戸「入学から数か月経ってから、学生寮に入りました。そこで、地元の学生とは違う、日本全国から来た学生たちと出会い、仲を深めました。当時の学生寮は、相部屋システムの寮でした。やはり生活をともにする中で友情も深まり、先輩後輩も交えた輪が広まりました。大学の敷地内で生活する寮生が朝早くから夜遅くまで練習する姿を目の当たりにして、正直、刺激を受けたというよりも、ただただ仲間の努力する姿に胸打たれました。
 ピアノコースの学生としては、とにかくたくさんの伴奏を引き受けていたのを覚えています。小さい頃からアンサンブルに親しんで育ったこともあり、誰かと一緒に演奏する伴奏や室内楽というスタイルが好きでした。かたや、時間の問題からも、ピアノコースの学生で伴奏を進んで引き受ける人はあまりいません。しかし、私は『うん、いいよ』という風に引き受けていくうちに、伴奏を通して、声楽から管弦楽器まで、そして同級生はもちろん、先輩から後輩までいろいろな人と組みました。そのおかげで、ピアノ曲に限らずにさまざまなレパートリーに触れることができましたし、ピアノコース以外の諸先生のレッスンを一緒に受けることができました。
 また、私は小さい頃から、腕や肩付近に故障を抱えていて、当時、まだはっきりとした原因や病名もわかっていなかったのですが、ピアノを弾くということに常に困難な面があったのです。それをだましだましで長年なんとかやりこなしてきていたので、時としてひどい悪化が訪れるのですが、在学中にもかなり痛めてしまいました。その時に、友人や先生方が自分のことのように心配してくれて、いろいろと情報をくれたことは、今ではいい思い出です。寮生の中にはかなりの"健康通"もいて、日ごろから自分のメンテナンスをしっかりと意識している姿はとても印象に残っています。今にしてみれば、若い時に自分の健康管理法をしっかりと身に着けておくことがとても重要だと思います。」

????なぜ大学院で音楽学を勉強しようと思ったのですか。

大戸「ピアノを"趣味"では終わらせたくないという気持ちでピアノコースに進んだ私ではありますが、卒業後の進路や就職先を考える中で、やはり音楽とは違う方向性を思い浮かべることもありました。そもそも、ピアノコースの卒業生は、やはりピアノで生計を立てていくことが基本になると思いますが、私にはそれがイメージできませんでした。その一方で、私には、ピアノ以外のことで生きていくための武器が十分にそろっていないなと思ったのです。
 先生方や先輩方にもいろいろと相談している中で、一時は普通大学への編入を勧められたりもしたのですが、さまざまな周辺分野との関連を持つ音楽学に興味をもちました。私は社会学や比較文化学、または教育学にも常に興味をもっていましたが、音楽学であれば、音楽を軸にしてそういったテーマも勉強できると思ったのです。さらには外国語の習得はもちろん、音楽を理論的に語れる人になりたいと思い、音楽学への転向を考え始めました。進路を相談している中で、先生方にも音楽学で大学院に進むことを勧めていただき、音楽学コースの井上さつき先生と楢崎洋子先生にもご相談したところ、とても親身になってアドバイスをくださったので、県芸の大学院を受験することにしました。」

????大学院で印象に残っている授業や活動を教えてください。

大戸「ピアノコース出身の私には、音楽学専攻のカリキュラムがとにかく新鮮でした。特に学部から音楽学を専攻していた同級生や、学部生の勉強ぶりを見ているだけでもよい刺激になりました。井上先生と楢崎先生のお二人から同時に指導を受けられるゼミでは、研究における根拠や裏付けの大切さはもちろんですが、それ以前に自分の考えをきちんと言葉にして説明するという作業の大切さを学びました。"なんとなく"ではダメですもんね。先生方から授業のたびに受けた鋭い指摘のおかげで、クリアにするべき点が常に目の前に現れ、曖昧な部分をなくしていくうちに、苦労しながらも自然と研究を進めることができたように思います。新進気鋭の研究者でいらっしゃる先生方の前で、自分の研究の進行状況を報告しながら考えを述べるという授業は 、当時こそ毎回心引き締めて必死に取り組みましたが、とても良い訓練になりました。
 きちんと言葉にするという点では、外国語の文献を講読する原典研究の授業もとてもためになりました。外国語を、何となく自分の頭の中だけで『大体こういうことだろう』と理解するだけでは不十分であり、きちんと日本語の文章にする重要性を学びました。この頃から、理論的かつわかりやすい文章というのがどういうものかということに、意識が向くようになっていったと思います。また、当時、特別ゼミのためにいらしていた角倉一朗先生の授業も、とてもよい思い出です。先生には授業中だけでなく、お昼時間や休憩時間にもたくさんの逸話を聞かせていただきました。」

????修士論文『フォーレの音楽における「持続性」――室内楽作品を中心に』では、どのようなことを論じられたのですか。

大戸「タイトル通り、少し変わったテーマを選びました。研究動機はとても素人発想的な単純なものです。私はフォーレの音楽が昔からとても好きだったんです。効果を狙ったような派手さがまったくない中、常に流れるような流動性や継続性があって、私にはそれが心地よいのです。また、フォーレの音楽といえば、まず旋法性が論じられますが、フォーレの音楽の特殊性はそれだけではないと思っていました。論文では、その持続性がどこからきているのか、私個人の感覚からくる発想を、理論的な検証によって解き明かそうとしました。研究対象としては、言葉の問題が加わらない器楽曲を選び、作曲年代が偏っておらず、かつ研究するには相応しい数がある室内楽曲にしぼり、フォーレのバックグラウンドや作曲技法、作曲工程などから論じることを c|みました。」

????大学院修了後の進路はどのように決められたのですか。

大戸「もともと大学を出たら自立すべしという親の方針があったところを、大学院に2年間行かせてもらったので、大学院修了後は就職して完全に自立しなくてはいけないと思っていました。しかし、私は、『日本以外の国を知りたい』という願望を小さい頃からずっと抱いていたんです。一方で、何度か海外に旅行した経験から、旅行することと生活することはまったく別物であることは理解していました。結局、海外に行く機会のある職種などを考えるよりも、就職する前に、海外に出てみようという考えに至りました。ただ、資金的には、自分がアルバイトなどで貯めてきたものしかないのがネックでした。語学留学や国際人道活動、ワーキングホリデーなども考えましたが、最終的には自分がこれまでにしてきたことを生かせて、その経験が将来にもつ なげられるような道を選び、音楽学で留学することにしました。
 先生方から、留学先は指導教官を考えて選ぶことも大事だという重要なアドバイスをいただいて、修士論文を仕上げる作業と並行しながら、新しい研究テーマをしぼっていきました。最初は『有声映画誕生の頃の映画音楽』と漠然としていたのですが、映画がフランスで誕生したことや、有声映画誕生の頃、フランスのいわゆるクラシックの作曲家たちが熱心に映画のために作曲し始めたという事情があったため、自然とフランスに目が向いていきました。時代的にはフォーレの延長上にもあたる、フランス6人組の時代です。私は作品分析よりも、作曲家のこの新しいジャンルへの取り組み方に興味があったので、映画音楽の研究が進んでいるアメリカ方面ではなく、映画が誕生し、作曲家が生きたフランスに留学しようと思いました。
 生活費が高いであろうパリに行ってしまうと1年もたない感じだったので、パリ以外の大学で、音楽学部と映画学部ともに博士課程まである大学をピックアップして、教授陣の専門分野などをリサーチしていく中で、モンペリエ第三大学でジャン?コクトー研究が盛んなことを知りました。コクトーは、文学や絵画にとどまらず、映画の世界においても『美女と野獣』など、歴史に残る作品を手がけたアーティストです。音楽学部のジョジアンヌ?マス教授がコクトーと6人組について研究されていたので、思い切って、『オーリックの映画音楽について研究がしたい』と直接手紙を送ったところ、『喜んで』という受け入れOKのお返事をいただきました。こうして私のモンペリエ行きが決まったのです。」

musicology-interview-05-02モンペリエ市内の風景

????モンペリエ第三大学では、どのような研究をなさったのでしょうか。

大戸「渡仏前から研究テーマを固めたうえでの留学スタートだったので、すぐさま研究に取り組みました。コクトーに関して膨大な資料があった図書館には、6人組、特にオーリックに関しての資料も少なからず存在したため、これはと思う手がかりにかたっぱしからあたりました。また大学には映画学部があったので、映画専攻の学部生の授業を聴講し、映画の歴史などを興味深く勉強しました。またマス教授のはからいで、大変幸運なことに、私は最初から映画学の教授からも指導をいただくことができました」

????同大学の修士論文『ジョルジュ?オーリックと映画音楽』では、どんなことを論じられましたか。

大戸「映画が無声から有声に移っていった1920年代に、クラシックの作曲家が次々にこの新しいジャンルに挑戦しました。現在では、クラシック音楽と映画音楽はまったくジャンルが違うものとみなされ、映画音楽は軽音楽、ポピュラー音楽、産業音楽の一種のように扱われています。しかし、当時の音楽家にしてみたら、オペラや交響曲を作曲したのと同じように映画のための音楽を作曲したに違いないという発想が研究の出発点でした。映画にかける作曲家たちの意気込みに興味を持ったのです。
 渡仏前に研究対象をオーリックに絞っていましたが、それは彼が200曲を超える映画音楽を作曲しているからでもあります。残念ながら、歴史的にあまり認められていない作曲家であるため、先行研究もほとんどありません。そのため、資料もすべて自分から見つけにいかなくてはならず、オーリックだけでなく、映画監督に関する資料もかたっぱしから集めました。論文の中では、映画史上評価の高い映画監督とのコラボレーションの中から、コクトーやルネ?クレールの作品など4つを選んで、オーリックの音楽の使い方についても論じました。
 この論文は2年かけて無事仕上げることができ、DEAという博士課程準備段階のディプロムを取得しました。DEAの論文を提出した1年後に、この時代の映画音楽についての研究を続けようと博士課程に登録しました。研究にあたっては、オーリック夫人、オネゲルの娘であるオネゲル夫人、そしてジャック?イベールの息子であるイベール氏にお会いして、貴重なお話はもちろん、個人所蔵の貴重な資料を見せていただくことができました。残念ながら研究は中断したままになっていますが、こういった恵まれた環境を得られて、フランスに留学したのは正解だったと思います。」

musicology-interview-05-03モンペリエのオペラ座コメディ

????そのほかに、モンペリエ第三大学での学生生活で印象に残っていることはありますか。

大戸「自発的に受けていた授業を除けば、修士課程の必須単位数は少なかったのですが、研究を進める以外では、とにかくフランス語力を高めることが最優先でした。常にメモ帳を持ち歩いて、知らない単語などを見たり聞いたりする度に書き込んでいました。そんな中で、オプション授業をとる必要に迫られた時、言葉の苦しみから逃れるためにも、生の音楽に触れられる一時が得られたらと思って、室内楽の授業のオーディションを受けました。この授業は、人数制限があり、オーディションがあったんです。
 この授業を指導されていたのが、モンペリエ国立管弦楽団のフルート奏者ミッシェル?レニエ氏でした。レニエ氏は、オーディション当日に、参加者すべての伴奏を初見でこなした私に目をとめてくれました。そして、室内楽の授業で前途有望な同年代の声楽専攻の学生とペアを組ませてもらったことから、予定外の生活が始まりました。再び演奏をする時間を与えられたのです。学内コンサートはもちろん、大学で執り行われた名誉博士号授与式の場で演奏する機会もいただきました。また、レニエ氏は生徒たちにモンペリエ国立管弦楽団のリハーサルなどを見学させてくれたので、私もできる限り足を運び、時には大ホールの客席で一人でゲネプロを聴くという贅沢なこともありました。
 この時期、まだ私のフランス語もずいぶんと危ういものだったと思いますが、音楽が世界共通語だということをまさに再確認しました。私自身、モンペリエでピアノを弾く機会を与えてもらったことによって、さまざまな人と出会いました。小さい時から音楽をしてきたことが、このようなかたちで自分の力になってくれるとは思っていませんでした。」

????大戸さんは、モンペリエ国立地方音楽院でも勉強されていますね。ここでは、どのような勉強をされたのでしょうか。

大戸「フランスの音楽教育システムは音楽院(コンセルヴァトワール)を中心として成り立っています。モンペリエ国立地方音楽院に行ってみたいと思った理由は、日本の教育システムとの違いを実際に現場で知りたいという好奇心からでした。教育システムについては、現在はいろいろと改革が進んでいますが、私が通った2003年頃は、専門主義、細分主義のシステムの名残が強く、ピアノ専攻ならピアノのレッスンのみ、音楽分析なら音楽分析の授業のみ、といったまさに単品販売的なカリキュラムが基本でした。私は、日本では独立した専攻科目、あるいはディプロムとして取得できない科目に興味を持ち、ピアノ伴奏科と室内楽科、そしてソルフェージュ科に登録することにしました。
 いろいろな事情から、ピアノ伴奏科には1年弱しか実際には通っていませんが、初見演奏、移調演奏、オーケストラ譜などからのアレンジ演奏、即興等を習得すべき技術として訓練する場であったのが、意外でおもしろかったです。というのも、私は小さい頃からヤマハシステムで育ったので、こういったことを理論的に学んだり、目標を掲げて訓練したことがないまま、感覚的に身に着けていました。また、伴奏も、高校大学を通してたくさんの実践で学んできましたが、フランスでは、伴奏科に入って初めて学んでいくものなのです。
 室内楽科では、各学生のレベルと時間割によって先生方がグループを組むのですが、私は2年間で、バスーン、チェロ、フルートの生徒とデュオを組ませてもらいました。私が日本ですでに相当数の伴奏をこなしていたことも考慮に入れて、先生が私も知らない曲を選んで与えてくれました。室内楽の授業を受けていた時、音楽院に海外から来た学生が多数在籍していることを知りました。中でも、デュオを組んだ、シリア出身のチェリストのことが印象に残っています。彼はまだ16歳の男の子でしたが、不安定な祖国からフランスに亡命申請をして来ていました。譜読みや基本的なソルフェージュの知識がまだ不足していたのですが、彼の奏でるチェロの音色の素晴らしいこと???。日本では遭遇したことがないアンバランスさに、私も驚きました。しか ??、同時に、16歳の子が亡命せざるを得ないという、日本からは遠く離れた世界の厳しい現実を目の当たりにしましたね。」

????大戸さんは、学業のかたわら、モンペリエでさまざまなお仕事をなさっていますが、どのようにしてそれらのお仕事をするに至ったのでしょうか。

大戸「もともと留学のための奨学金も得ずに、親からも生活費の仕送りなどはなかったので、自分が日本でアルバイトなどをして貯めたお金だけが私の留学資金でした。そのため、フランスで修士論文を仕上げるにあたっては、語学力や時間の問題うんぬんの前に、とにかくお金がなくなったら終わりという大前提がありました。今思えば、そんな状況こそが、私のモンペリエ生活の幸運のきっかけだったのです。お金がなくなったら帰国しますという私に、『カオルがここで勉強を、また生活を続けられるように!』と気にかけてくださった先生や知人に恵まれ、いろいろな人が『こんなアルバイトがあるよ』と後押ししてくださったのです。そうして留学1年目でまだフランス語にも不安だらけの時期に、大学のホールや、モンペリエ国立管弦楽団のコンサ ートの客席案内係などのアルバイトを始めました。
 また、室内楽でお世話になったレニエ氏が『カオルにはきっとモンペリエで仕事をして生活していける可能性があると思うよ』と言って、履歴書を準備するように勧めてくれたのです。モンペリエ国立管弦楽団の団員を中心に履歴書を回してもらった結果、モンペリエ郊外の音楽学校から、年度末の試験のピアノ伴奏者として来てほしいと声がかかりました。フランスに行ってわずか8か月後のことでしたから、とてもラッキーでしたね。しかも、この仕事で出会った先生方からの紹介で、12月からピアノの先生の産休代理を探している音楽学校があるという話をもらって面接を受け、7か月の契約で採用してもらいました。フランス語もまだ怪しい私が、一挙に25人ほどの生徒の指導をすることになったのです。担当したのは小学生から大人まで。言葉は不自 ?±でも、必死で言いたいことを伝えようとしたことが伝わったのか、生徒や親、そして同僚の先生方からもよい評価をいただいて、産休代理が終了した時には、別の先生の後任として正式採用されたのです。
 時期を同じくして、モンペリエ国立地方音楽院のピアノ伴奏科の先生の紹介により、モンペリエにある、子どもや若者がオペラやミュージカルをするという"オペラ?ジュニア"というユニークな組織から、ピアノ伴奏の仕事を頼まれました。これは、指揮者?教育者でもあるブルガリア出身の作曲家がつくった団体で、小学生から25歳までの若者が、歌や合唱を学び、オペラなどの舞台をつくり上げるというコンセプトのもと成り立っています。」

musicology-interview-05-05音楽学校の年度末コンサートの様子

????オペラ?ジュニアでは、どのようなお仕事をされたのでしょうか。

大戸「オペラという目的がある以上、演劇、ダンス、振り付けといった幅広い分野の要素が関わってきます。オペラ?ジュニアでの仕事を通して、音楽家以外のアーティストと出会い、ともに仕事をする機会を得ました。また、舞台をつくり上げる過程の中で、芸術家だけでなく、衣装、メイク、照明、大道具、小道具といった舞台に関わるあらゆる仕事にも間近で接することができました。さらに、演出家、演技指導の俳優、ダンサー、振付師といったそれぞれのプロたちが若者を指導する姿を目の当たりにすることで、私自身もいろいろなスタイルの教育方法を学びました。
 多くの人と接していると、日仏の文化の違いに気がつき、驚くことばかりでしたが、年齢や立場の違う人とどのようにコミュニケーションをとるか、どのように自分の考えを主張するかという大事なノウハウも自然と身に着いていきました。フランス社会では、とにかく自分の考えをはっきりともち、表明することが必要です。また、フランスでがむしゃらに生きる中で、フランス人と日本人双方のよさがよくわかるようになり、日本人のよさを失ってはいけないと意識するようにもなっていきました。
 外国人留学生という身分でフランスに滞在していた私ですが、音楽学校とオペラ?ジュニアとは、ハーフタイムではありながらも、早い段階で終身契約を結ぶに至りました。その他にもいろいろと単発での仕事をもらいましたが、この2つの契約が決め手となって、2007年には、取得困難で知られるフランスでの正式労働許可付きの滞在許可証を取得することができました。それにより、フランス人と同じように、自由に仕事ができるようになりました。」

musicology-interview-05-04オペラ?ジュニアの若者と同僚と一緒に)

????その後は、どのようなお仕事をなさったのでしょうか。

大戸「その後は、うまいこと時期を合わせたように、それまで以上に仕事で声をかけてもらうようになり、モンペリエ国立管弦楽団では合唱やソリスト歌手の練習ピアニストとして、また、モンペリエ国立オペラ座でもコレぺティトゥールの代理や伴奏ピアニストとして、エルヴェ?ニケ氏、ファビオ?ビオンディ氏、ローランス?フォスター氏といった世界的音楽家のもとで仕事をさせてもらいました。また、これから国際舞台に飛び出していく、若手アーティストと仕事をともにすることも新鮮でした。コレぺティという仕事柄、また私の年齢からも、彼らを応援するお姉さん的な立場になる傾向があって、彼らのその後の活躍ぶりを知るとこちらもうれしくなります。
 また、オペラ座では字幕操作や舞台マネージャーのアシスタントまで経験させていただきました。この仕事は、舞台でライトアップを浴びることこそありませんが、オペラというさまざまな職種や役割を持つ人々が集まる仕事場で、チームプレイをいかにしてうまく機能させるかという部分にも関わる、なくてはならない役目です。私はオペラの世界を、音楽家と舞台裏スタッフ双方の立場から知ることができました。
 さらに、モンペリエでは、毎年7月にラジオフランスが開催する大きな国際音楽フェスティバルがあるのですが、そこでもピアノ伴奏者や字幕操作担当として仕事を始めました。そこでは、字幕のためのファイルと楽譜そのものを準備する作業もしてほしいと頼まれ、翻訳こそ担当しませんが、与えられた楽譜と台本をもとに、字幕のカット割りとキューのタイミング決めをする仕事もさせてもらっています。」

????現在は、どのような活動をされているのですか。

大戸「基本的には、先に述べた活動を続けていますが、フランスの音楽教育の現場で数年過ごしている中で、日本とフランスの音楽教育システムの違いに興味をもっていきました。まだ自分のメソッドというほどまで確立できていませんが、自分なりの考えにもとづいた指導法で自由に教えられるように、個人での音楽教室の設立を申請しました。ピアノだけに限らず、楽譜を読む力を養いながら、歌や、また自発的に挑戦したがる生徒には、簡単な和声や作曲の基礎も教えたりしています。中には中学生ながら自分で歌詞を書いて作曲する子もいるので、ちょっとしたサポートをしながら創作活動を見守っています。
 また、仕事とも音楽とも関係ありませんが、東日本大震災の直後に、モンペリエで東北被災地支援の市民団体を立ち上げました。」

musicology-interview-05-06東北支援のためのアソシエーション立ち上げを伝える新聞記事

????フランスにいながら、被災地支援を行なっていらっしゃるのですね。どのような活動か教えてください。

大戸「これは、フランスで"アソシエーション"と呼ばれる、いわば利益を追求しないNPOです。私はそれまでこうした活動の経験はありませんでしたが、フランス人、在仏邦人を問わない会を立ち上げて、発起人?代表として、復興への長く険しい道のりが続く東北への支援を訴えて、活動してきました。活動内容としては、チャリティーイベントやチャリティーコンサートなどを組織したり、チャリティー販売などをしながら募金を集めたり、東北の被災者への応援メッセージを募って日本語に訳して東北に送るなど多岐にわたります。この活動を始めたことで、仕事だけでは接することがなかったであろう人々と出会い、思いがけない経験をたくさんさせてもらっています。アソシエーションというのは、とてもフランス的な活動で、それに関わったり運 ??したりすることで、フランス文化の真髄に触れることができます。モンペリエ市、県、地方といったあらゆるレベルでの政治関係者と出会いましたし、日本総領事館の方々や日仏交流に関わる人々にも出会いました。マスコミも目にとめてくれて、いろいろなインタビューやテレビ生出演なども多く経験しました。
 遠く離れた地への支援を訴えるには、やはり現状を理解してもらわなくてはいけません。日本で公開されている情報、フランスで伝えられる情報、そしてインターネットなどで出回る情報も含めて、情報伝達とは何か、マスコミの報道とは何かということに気が付いたように思います。また、2011年には世界中が目を向けていた東北ですが、やはり時とともに忘れ去られてしまいます。そして、現地の方々は今も狭い仮設住宅で生活を続け、津波で姿を消してしまった町の再興のために必死で前を向いてらっしゃいます。その中で、よそものが、しかも強い経済力を持たない者が、どのように具体的かつ有効な支援活動ができるのか、模索しながらとにかく動いてきました。東北被災地にも2回お邪魔していますが、現地の子どもから高齢者まで多くの方と実 ??に触れ合う中で、一つ一つ確信を得ながら進んでいます。この大震災を地球の裏側から見ていたので、もしかしたら日本にいるのとはまた違う受け止め方をしたのかもしれませんが、今被災地で起きていることを知ると、日本人あるいは世界中の人が気づくべきことや学ぶべきことがたくさんあるように思います。」

musicology-interview-05-07陸前高田上長部公民館訪問時の様子

? ????県芸で学んだことは、卒業後の生活にどのように生かされましたか。

大戸「自分の考えをはっきりと論理立てて述べるという重要性を学べたことは、大きなことだったと思います。会話や文章で自分の考えをはっきりさせる、わかりやすく伝えるということは、実は研究だけでなくて、社会の中で生きていくにあたって、とても重要なスキルだということが後になってわかりました。また、県芸の大学院で学んだからこそ、海外生活の中で外国語を習得するには、まず母国語をきちんと扱えているかどうかという点が大事だということがよくわかりました。
 また、今だからこそ痛感していることですが、県芸では、他大学に比べてアットホームな雰囲気の中で、それぞれの分野のエキスパートの先生方の指導をきめ細かく受けられたことが幸運なことだと思います。音楽と美術の専門大学である県芸には、充実したカリキュラムがあります。それがついつい当たり前のように思ってしまいますが、世界的にみても、実は大変高度で専門性に富んだすばらしいカリキュラムなのです。県芸で学んだ6年間で音楽に関わるあらゆる科目を網羅できたことで、音楽家また教育者として、バランスのとれたバックグラウンドを培えたと思います。」

????今後の活動の見通しを教えてください。

大戸「モンペリエでの生活も11年半となり、過渡期にさしかかっているのかなと感じています。というのも、知人が一人もいない地でゼロからスタートし、無我夢中で前に進んでいた時期を通り抜けて、これからは自分で一つ一つ選択していく時期に入ったと思っているからです。モンペリエの音楽界では改革が進み、数年前にはオペラ座と管弦楽団が一体化し、この1月には、これまで独立した組織だったオペラ?ジュニアも吸収統合されました。そのため、これまで各団体と契約を結んでいた私のような立場の者には、これからどういった仕事内容、契約内容になるのか、もう少し待って様子をみる必要があります。もしかしたら終身雇用という恵まれた環境から、自発的に出ていくこともあると思います。声をかけられた仕事、与えられた仕事をこなすだ けではなくて、自分にだからこそできることを具体化していきたいとも思っているからです。
 フランスは、文化芸術に関する多くの組織が政府直系の公的機関であり、オペラ座および管弦楽団もそうである以上、政治に変化があるたびに、変化を強いられるといっても過言ではありません。これは日本とはまったく違う点だと思います。今や、海外留学や海外駐在の経験者はたくさんいますが、現地の社会に入って生活する日本人はまだまだ少ないと思うんです。現地人にもまれて生活をしていると、苦労も少なくはありませんが、本当の文化や現地の社会というものが見えてくると思っています。もちろん、日本にもフランスにもそれぞれよさや学ぶべきところがあり、双方の文化や社会システムを知る者として、何か社会の役に立てることを実現していきたいと思っています。
 そもそも私のモンペリエ生活は、誰に頼まれたわけでも、勧められたわけでもありません。当初は長くて1年くらいと思っていたのが、もうすぐ12年になりますから、人生とは不思議なものです。自分が前を向いて進んでいる限り、誰かに出会い、またそれが新しい出会いをもたらしてくれます。この不思議なご縁に導かれて進んできた道で得た経験を生かして、新しい冒険にも億劫がらずに飛び込んでいきたいと思っています。」

????最後に、県芸の音楽学コースで学びたいと考えている方へのメッセージをお願いします。

大戸「まずは、人生において何にでも言えることですが、何事も受け身ではなく自分から積極的に動いていくことを大切にしてもらえたらいいなと思います。与えられるものだけで満足していては、結局はまわりの人と同じ、あるいは定型通りの人にしかなれません。そして若い頃にできる限りの刺激を受けて、吸収できることはどんどん吸収していってください。学生時代に『自分の引き出しをもてるだけもった方がよい』とおっしゃっていた先生がいましたが、時間がたった今、まさにその通りだと思っています。どこにいても自分なりの、自分だけのプラスアルファとなる点を大切に養っていってもらいたいです。日本にいようが外国にいようが、最終的にはそれぞれの"人間力"がカギになると思います。あなただけにできること、あなただからこそ ?§きること、そしてあなたの人柄が武器となります。
 また、人は一人で生きているのではありません。どのような場であっても、常に何かを伝える相手、共有する相手、あるいは何かを交換する相手がいると思います。どれだけ真面目に熱心に勉強をしていても、それが自分一人の閉じこもった世界の中だけなのでは、ゆくゆく何かにつながりません。演奏をするにも聴き手がいますし、研究発表をするにも、聴き手、そして読者などがいます。その人たちに自分のメッセージが伝わるように、自分の想いがどのようにしたら相手に届くか、意識してください。人生とは、自分とは違う他の人と何かを共有したり交換したりすることで豊かになっていくのではないでしょうか。常に自分の意志をはっきりと持ち、真摯にまごころを込めて行動をしていたら、道は自然と開けてくると思います。」

大戸 薫(おおと?かおる)
皇族电竞竞猜音楽学部器楽専攻ピアノコース卒業、同大学院音楽研究科修士課程(音楽学)修了後、2002年渡仏。モンペリエ第三大学博士前課程修了、専門研究課程修了証書(DEM)を取得。モンペリエ国立地方音楽院にて室内楽とソルフェージュの一等賞(プルミエ?プリ)を取得。
2003年より、伴奏ピアニスト、ピアノ教師としての仕事を行うようになり、2007年には、フランスにおける正式労働許可証を取得。モンペリエ国立オペラ座、モンペリエ国立管弦楽団、ラジオフランス音楽祭等から仕事の依頼を受ける。現在、モンペリエ国立オペラ座ならびに国立管弦楽団ピアニスト。また、東日本大震災後には、被災地支援の市民団体を立ち上げ、チャリティー活動のみならず南フランスにおける日仏文化交流にも深く関わる。

インタビュアー?森本頼子
皇族电竞竞猜音楽学部作曲専攻音楽学コース卒業。現在、同大学院音楽研究科博士後期課程(音楽学)在学。専門は、西洋音楽史およびロシア音楽史。皇族电竞竞猜、金城学院大学、各非常勤講師。

取材日 平成26年3月20日